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■萩多和城(はぎたわじょう)

萩多和城は、奥藁科・日向地区にあった南北朝時代の山城です。今から650年ほど前の文和2年(1353年)2月10日、川根の徳山城を攻め落とした北朝・今川氏の家臣、伊達景宗の軍勢がこの城を攻撃しました。この城は、安倍城を守る重要な役目を持っていたため、安倍城を攻める前にどうしても攻め落とす必要があったのです。この「萩多和城」は、徳山城が落ちてしまったため援軍がなく、たった一日の戦闘で落城したといいます。今川軍は続いて13日、蛇塚の先(本川根)にある「御応土城」(ごおうどじょう)にも押し寄せ、ここも攻め落としました。
さて、この萩多和城の正確な場所については諸説あるようですが、現在日向地区北東の夕暮山の山頂にほど近い林道脇に、萩多和城を記念する石碑が立っています。この麓には、川根や玉川に通じる交通の要衝であった「秋葉街道」も通っていました。
地元の人の話では、弓矢が簡単に届いてしまったため、実践的には役立たず、対岸の山に移したという伝承もあるそうです(佐藤助広氏談)。そこで、現在の日向・福田寺の辺りに移したのが、新しい「萩多和城」といい、地元ではこの山城を
「一谷城」(いちやじろ)とか、「萩の平」とも呼んでいます。
一谷城は萩多和城の山下にあり、山城の武士が日常居住した
場所と考えられています。


写真1 「萩多和城跡」からの眺め


写真2 「萩多和城跡」石碑
■一谷城(いちやじろ)

一谷城は、かつて東西南の三方を、それぞれ千田沢・藁科川・堂沢に囲まれ、北方の山上が萩多和城となる、現在の日向地区・福田寺の高台に位置していました。寺の前には、隣り合う白髭神社の社家・内野右近太夫の広い屋敷跡が残っています。現在は茶畑となっていますが、その中に内野右近太夫の墓が建っています。周辺には土塁と思われる城の遺構が良く残っていて、西側にある大川小学校の方から登ると、空堀や山城特有の虎口(城の出入り口)がはっきりわかります。
虎口への東側の上り坂を、地元では御堂坂といっており、おそらくは萩多和城への大手門に相当する場所だったのでしょう。福田寺・観音堂の横には、見事な秋葉常夜燈と庚申塚群があり、更に尾根を進むと、城主の墓でしょうか信州高遠の石工作の「宝筺院塔(ほうきょういんとう)」があります。ここ一谷城周辺には、この2つの山城にまつわる地名が多いので紹介します。


写真3 「御堂坂」
■周辺の地名

■蔵の段:
千田沢を隔てた台地にあります。伝承では、一谷城の食料や武器を保存したところと言います。

■樋 口:
白髭神社の大銀杏に通じる横道を樋口といい、武者走と用水路の跡と地元ではいいます。

■矢切場:
戦闘用の矢竹が生えているのでこう呼びます

■矢下(矢平):
現在の大川中学校の体育館辺りで、萩和多城の戦闘で放たれた矢が落下した場所といい、湯ノ島へ行く途中のところにも同じ地名があります。

■鍛冶屋林:
矢下(現:大川中学校体育館)より少し登った台地で、萩多和城の武器や武具を作った場所です。ここは陽明寺住職が隠居した場所(尼屋敷)とも言います。

■矢上げ辻と小城の段:
一谷城(現:福田寺)の裏手から尾根伝いに山道を登ると空堀があります。その辺りに広い台地があり、地元では「矢上げ辻」と呼んでいます。ここから100mほど上部に「小城の段」があり、萩多和城に続いています。ここからは
「秋葉街道」を進む人馬の動きも見え、情報収集のための「物見の段」として重要な場所であったと考えられます。

■萩多和城跡:
小城の段から更に進むと、山道と林道が幾たびか交差し、最後は道標にそって林道を辿ると、萩和多城跡(770m)に出ます(※諸説あり)。ここは位置が高く防備の面などから優れ、徳山城の「高山砦」や「護応土城」(955m)のある富士城も眼前に開けており、山城の原形を残しています。藁科川の流路も見え「坂ノ上」「陣場河原」などは直線上にあり絶好の環境です。

写真4 「小城の段」跡地


写真5 萩和多城跡
引用:「藁科物語第4号〜藁科の史話と伝説〜」(静岡市立中央図書館.2000)