【 崩 野 】
天狗が石の橋を架けた伝説の郷

崩野
(くずれの)

 〜かつて尾根筋を行き交う街道の麓に賑わった、緑と赤のコントラストが美しい山里〜

 崩野(くずれの)は、藁科川支流・崩野川の右岸斜面にあり、お茶や林業を生業としている集落です。かつてはワサビの産地としても知られました。山間高地にあるため、崩野川対岸の楢尾集落が見渡せ、農家の民家の赤い屋根が、緑の山々と溶け合い美しい風情が楽しめます。
 周囲は、西に天狗石山が連なり、智者山の向うは川根本町です。往時は、甲斐の国と、三河・駿河の国を結ぶ尾根づたいの街道であり、商人たちでにぎわったと言います。天狗石山の由来も、そうした商人たちを襲った天狗のしわざからきた伝説が、その名のおこりと伝えられています。
 崩野という地名は、文字が示している通り、よく地滑りがある土地であることや、雨も降らず、何んの気候の変化も見られないのに川の水が濁っていることがよくあることから名づけられたとも言われています。
【歴史】
[中世] 「崩野宝光寺境内は往古土岐山城守の居城せし所なりといひ、里人此処を土岐殿屋敷といふ」(静岡県安倍郡誌)とあって、南北朝には徳山城と関わる土岐一族の者が居住したと考えられています(静岡県の中世城館跡)。
遺構その他は不明ですが、智者山や千頭に至る中継地点として築かれたと想像されています。

[近世] 崩野村
江戸期〜明治22年の村名。駿河国安倍郡のうち。幕府領。村高は寛永改高24石余、「元禄郷帳」95石余、「天保郷帳」96石余、「旧高旧領」95石余。「駿河記」によれば、家数32.寺社は曹洞宗宝光寺、白髭社ほか3社。
明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称)、同4年に静岡県に所属。明治7年に宝光寺境内に洗心舎を開き地域の教育を開始したが、同11年対岸の楢尾小学校海禅寺境内に移転、同13年に楢尾小学校となる(静岡市立小中学校沿革の概要)。明治22年、大川村の大字となる。

[近代] 崩野
明治22年〜現在の大字名。はじめ大川村、昭和44年からは静岡市の大字。明治24年の戸数32・人口211.静岡市内でも有数な過疎地で人口が激減しています。崩野はかつて隣接した八草(平成6年戸数1・人口2)と一町内を形成しています。平成5年楢尾小学校が閉校したため、崩野地内の小学校は大川小学校に移籍されました。



 

【宝光寺】
 かつて集落の上にあった宝光寺は、陽明寺の末寺で、天文3年(1738年)諸子沢の吉祥寺を開いた巨海が開創しました。その昔、土岐山の城主が居住し、地元の人々は「土岐殿の屋敷」と呼んでいたとのこと。
 現在は、お寺の跡地の上部に、菩提樹と共に千手観音像を祀る観音堂が残っています。
【白髭神社】
 集落の西側、宝光寺跡の上部に建つお社です。別名崩野明神と称し、創建は安部郡誌によると、文明9(1469)年とされています。
 一度、氏神は文明年中(1469〜87)日向字松の平に奉還されましたが、天文年間(1532〜55)に再び旧社地の字宮本に移され、文化十四年(1817)二月に、現在の地字横開土に遷座しました。
 猿田彦命を祭神として奉り、毎年秋に例祭が開催されています。
【八草】
 藁科川上流の崩野川右岸の智者山の中腹の山間に位置する、現在は人の住んでいない廃村です。

 智者山神社と深く関わったとされていて、八草の大家の高橋家(本川根に移住)の祖先は、智者山神社別当職を世襲しました。戦国期には、井川の金山へ通じる重要な拠点として歴史があり、また慶長6年(1601)の高橋家文章によると、井川金山の出入りを監視する番所が智者山に置かれ、この地の高橋家がその役を勤めたと伝えられています。
【朝日滝】
 崩野の集落からおよそ2kmの所にある幅5m、落差約30mの滝です。3段になって流れ落ち、厳寒期には滝一面が凍りつきます。
 朝日があたって光り輝く様は圧巻。朝日が滝に射した時に、観音像が映し出されるという言い伝えが残されています。

【天狗石山】
 標高1366m。
 天狗にまつわる伝説があり、天狗石という変わった石の集まりがあります。山頂付近はなだらかで歩き易く、落葉広葉樹の森が広がっており、10月後半〜11月にかけて紅葉が楽しめます。
 天狗石山の由来として、桑原藤泰(1766〜1832年)著の紀行文「波摩都豆羅(はまつけら)」によると、江戸期頃までは、この山は“天狗石橋山”と呼ばれており、「大昔、天狗他亭がこの山に集まって、山麓の崩野という村里まで約三里(12`)程、一夜で石橋を作ろうとした所である」ことから名付けられたと言われています (「天狗石」説明板より抜粋)。
 かつてこの山は、大井川上流域の村里と藁科川筋の村々を結ぶ要衝として、人の行き交う場所でした。
【智者山】
 標高1291m。
 山頂の麓には、雨乞いなどで信仰をあつめた“智者山神社”があります。この神社は、大野神社と智者山千手観音菩薩から成り、祭神は大山津見神(山の上で山の安全を守る神)と天之水分神(あまのみくばりのかみ)(雨を降らせる神)で、昔から農業・雨乞いの神社仏閣として有名でした。また、明治以来の戦の守り神でもあり、霊験は著しく、毎年春秋の彼岸の中日に例祭が行われていました。
 祈願が成就された時の“お礼参り”に、かつては家を出発してから神社に到着するまで、裸足で参拝するという風習が残っていました。また、祈願の時間も丑の刻(現在の真夜中)に参詣して、社殿で一夜を明かすと、神霊が恍惚と現れたと言い伝えられています。
 

参考:「大川のしおり」(杉本覚朗.香文工房.1982)
   「藁科物語第3号〜藁科の地名特集〜」(静岡市立藁科図書館.平成6年)