TOP > 歴史・地理 > 史跡「楢尾の石仏」 ≪ 史跡「楢尾の石仏」 ≫
 標高およそ600m、旧楢尾小学校から、およそ1㎞位登ったところの道端に、遠い昔を物語るかのように、風雨にさらされ、落雷に痛められ、根は蟻に蝕まばれながらも、緑の枝葉を伸ばして、年老いた杉の大樹が二本並んで立っています。此の二本の杉の木の間には、大小さまざまの丸い石が、何百個というほど積まれています。この石は、丸い石とは言っても、磨かれた川原や海岸にある石とは全然違った山の石であって、ぼろぼろの岩の中から、時折に出てくる岩の核子とても言うのでしょうか。簡単にいつでも手に入るという石ではありませんが、此の石を、石仏様へ供えてお祈りすれば、旅の疲れも癒し、足腰の痛みも和らげてくれると、昔から言い伝えられています。誰彼が何時供えたかと言うのではなくて、永年の間に、何時とはなく心がけのある村の人や、通りがかりの旅人、わざわざお詣りに来る人、山づくりに励んでおられた方など、信仰篤い人達の真心の積み重ねによって、石塚と言ってもよいでしょう。これが楢尾の石仏であります。

 今では寂しい山道となっておりますが、昔はこの石仏を中心として、東は大間の石仏、大間を経て、玉川や井川方面へ。北は七ツ峰を仰ぎながら、益田山を通り、梅地長島方面へ。西は楢尾小学校を過ぎ崩野・八草・智者山を経て川根方面へ。また南は、川合より湯ノ島を通り、藁科川にそって静岡方面へと、唯一の重要な街道であったことと思われます。昔は大間の不動さん、楢尾のお稲荷さん、智者山の観音様などのご縁日には、遠くからの参詣者も見えて賑わった道でもあります。大間からの学童たちの通学はもとより、あらゆる行商人や多くの旅人などが、この道を通われたことと想像されます。石仏の起源は詳らかではありませんが、大きな杉の木は、旅行く人の道標であり、しばしの憩いの場でもあったことでしょう。

 これも古い話しではありますが、ある時、留さんという人が、この石仏を通りかかると、一匹の大きなやまがかし(蛇)がいた。もとより蛇の嫌いな留さんは、持っていた杖で、蛇の胴中めがけて一打ちくれると、蛇はのたうちながら、草むらの中に見えなくなってしまったので、留さんはそのまま家に帰ったが、家に来てみると、大変なことに妻のおぎんさんが、お腹を押さえてもだえ苦しんでおりました。驚いた留さんは、薬を飲ませたりいろいろと手当てをしてもいっこうにおさまる様子もありません。途方にくれていた留さんが、はっと頭に浮かんだのは、先ほど石仏さんで蛇を痛めつけたことでありました。これはきっと、石仏さんのお怒りかもしれない、と気がついた留さんは、早速お神酒やお洗米などを用意して石仏さんのところへ行って、一心にお詫びをして妻の痛みが治まる様にと、お祈りしました。そして家に帰ってみると、あんなに苦しんでいた妻のおぎんさんは、いつの間にか、嘘のように痛みも治まってけろりとして、座っていたということです。実際にあったことと言い残されています。

 この石仏さんに昭和54年の春、奇篤な人たちのご寄進によって、新しい祠が建てられました。石仏さんを信仰すると、腰の痛みや皮膚の病なども不思議に治してくれるといううわさも広まって、今では遠いところからわざわざお詣りに来る人やお礼詣りに来る人など、信仰する人たちもだんたん多くなり、山の中にうずもれていた楢尾の石仏さんは、山の守り神として、多くの人に親しまれ、一段と格があがった様な感がしております。

<杉の大木に挟まれた石仏の祠> 


<祠の前に雑然と並ぶはたくさんの丸石> 


<かつては人の行き交った山の街道>
引用:『ふる里わら科八社 第1集』大川寿大学