TOP > 歴史・地理 > 遺跡「日向 野田の段」 ≪ 遺跡「日向 野田の段」 ≫
 日本の原人という三ケ日人・牛川人・明石人の頭骨化石は一万年以前のものと言われる。では、藁科の祖先は、大川の原人はどうなのか。何はともあれ、日向字野田の段で出土した縄文土器の発見は、画期的な偶然であった。

 三千年前のものと言われるこの土器が発掘された動機は、昭和二十五年、この土地を所有する旧大川村が施設の財源に当てる必要から地元の佐藤吾兵衛氏に払い下げた。佐藤氏は、この山を畑にするため、昭和二十六年から開墾作業を続ける内発見したというもの。戦後の食糧増産で厳しい対応に迫られていた頃である。それにしても貴重な土器の多くは、県内外の人たちに持ち運ばれたというが、当時の世相からすれば、止むを得ないことであったかも知れない。

 野田の段という地名は、広い陸田(畑)の段丘と解釈されるが、もとは烽火の段であったかも、という説もあるが、確かに当時の部族には、何か異変のある時の警報や何かを起こし始めようとする時の合図に、焚火を煙らせてあげることが重要な手段であった。

 狩猟と農耕に生きる部族間では、お互いに共通した観念に立って連携を緊密にしたことも確かである。
それにしても部族たちは、どのように展開したのだろう。他の場所にもまたあった筈の文化遺産がないのは、先に述べた地質変動のいたづらとも言えるが、小規模な山の崩壊は今でも続いている。

今でも土器の破片が見つかる 
縄文時代からの歴史が眠る
引用:「ふる里わら科八社〜第二集〜」(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)