TOP > 歴史・地理 > 伝統行事「おくり神の行事」 ≪ 「日向 おくり神の行事」 ≫
  移り変わる時代の流れと共に、今は消えて、昔語りの一つとなりましたが、今から六〜七十年前までは、旧幕府時代から続いた部落(今は町内)挙げての年中行事の一つであった「おくり神」の事について、記憶を辿ってみました。
 これは、悪い疫病の神を、部落内から追い払って年中の無病息災を願う、信仰からの行事なのでありました。
 祭日は、旧暦十二月八日であって、当日が近づき、人民惣代(今は町内会長)さんから、おくり神行事執行の旨、お布令が出ますと、村人たちは老若男女を問わず各戸一人以上は行事に参加する「きまり」がありました。又、集まる場所は、現存する陽明寺山門の前にある、境内の鎮守様をお祀りしてある、總石造りの祠の前でありました。
 村人は大勢集まると、みんなで行事の準備に取り掛かり、まず、お供え物の仕度やら、「さあ、おれは、なわや七五三(しめ)、或いは、人形作り用のワラを持って来るよ」「おれは、竹を切って来らあ」又「それじゃあ、おらあ杉の小枝を取って来るに」「私は榊をとってくらあ」とか「俺は祈祷者用の『ゴザ』を持って来る、誰か『カネ』と太鼓をさがしてきて」と云う訳で、一同準備にてんてこまいなのです。
 又しめ縄造りやら、なわをなう人、手慣れた器用者は、竹と縄を、それに杉の小枝でおみこしを造り、又、その中に飾る馬上の武者人形をワラで造る等など、なかなかに忙しい。
 けれどもみんな一生懸命協力して、準備を整えるのでありました。そして準備完了の頃、祈祷者の御出まし。祈祷者は白紙や色紙で、御幣や「シメ」を作り、神前やおみこしへ飾り付け、献供の品々を供えて、御祈祷が始まる。色々の「手振り」を交えての読経、それが終わるまでの時間は、約40分間ぐらい。
 その間、村人は祈祷者に従い、しわぶき一つ聞こえない、御祈りの謹慎状態なのでありました。
 そして、それが終わると、さあ、一同は祈祷者を先導に、行列賑やかに、長さ一米五〇糎程の長い柄の御幣を打ち振り乍ら、村内へ繰り出し、用意の鉦や太鼓を「ドンドン・チンチン・ドンチンチン」と威勢良く打ち鳴らし、「オオクレオクレ、おくり神を送れ」と、声張り上げて、叫びながらの行進。中には、一同を励ますかの様に、益々大声の老年中年もありで、賑やかさは高潮するので、子ども達は半ば物珍しさと、面白さの気持ちで、行列に参加し大合唱となるのでありました。
 そうした行列は、川上方面から、要所を順次に廻り、川下の方へとおみこし担いでねり進み、村はずれでおみこし治めの読経と共に、川へ流し納めて、行事は終わるのでした。
 その時、川下へ下るおみこしに向かって、子ども達は、競争するかの様に、大はしゃぎで石つぶてを投げつけるのでしたが、なぜかそれをたしなめたり、止めだてする人は、一人もありませんでした。
 このおみこしの納め場は、藁科川とその支流の篭沢川の合流点から、少し川上(百米位」「ミサキ石」と呼ぶ「ピラミッド」型の大石の所で行った事もあると、覚えて居ります。
 その大石は(高さ三米余、廻り十米余)、水流の中央部であった為に、切り取って、今は其の残り株だけであります。
 余談でありますが、川の合流点は、昔から浜辺に準じた信仰いまるわる処の様に思われます。
今も尚し風習に残っているのもあります。
 蛇足ではありますが、行列で思い出した往時の道路は、今の県道・市道・農道・林道など、そのほかの橋梁は、村中に一米も一つも無く、道と云えば全部、人か馬しか通れない位の凸凹のせまい道で、橋はやはり、人か犬位が通るだけ、丸太や枝を編んで造った、但し水の流れを越すだけのものでありました。
 現在は消えた送り神の行事、幼年時代のほのかな記憶を辿り、影を慕う気持ちで拙い筆を運びました。おわり

日向 佐藤篤太郎 一九〇一年生まれ
同所 佐藤とら  一九〇四年生まれ

<出発点になった陽明寺山門前の総石造りの祠> 

<みこしを流して納めた藁科川>

<合流点から川上にある大きな石>

<七草祭りの禊がおこなわれる川の合流点>
  引用:「ふる里わら科八社 第二集 」(大川寿大学講座受講生一同.静岡市中央公民館大川分館.1980)