TOP > 歴史・地理 > 伝承「大間の砂宮太夫」 ≪ 伝承「大間の砂宮太夫」 ≫
  大間の氏話には砂宮太夫に関する事が多い。宮大夫は何の為に追われたのかは分からないが、信州高遠乾の町より従者三人と共に来たり住んだと伝えられ、その中の一人仲谷某は鍛冶を受け持ったと云われ、三家共農家として現存している。太夫と云う官職は、正五位從五位の位階の五番目のものであったと辞書に在り、再三追手が来て、迎えうったと伝えられる事から宮大夫は従者等の取り締まりをする太夫ではなく、高官で当時高遠は京都よりの通り道であったとも云われる事から、京都を追われて一旦高遠に逃れ、更に安住の地を求めて来たり住んだとも思われる。
 それでは、それが何時頃かと云うと、羽鳥があって、その次に大間が出来た。その間には大きな家がなかったので、大きい間、即ち大間と云う名称になったと伝えられている。何時頃から大間が創ったのかこれを証するものはないのであるが、大間の神社の境内に不動様の御宮があるが、そのお宮に不動尊を御尊像を寄贈してあり、新旧二尊像が安置され居り、初めの方が古くなったので、新しいのを更に奉献したもおんと思われる。これには天文五年(1536年)申十二月吉日旦那宮太夫、刀工弦心と記されてあり、年代表に合わすれば、約四百五十年位前となり、古い方の腐食度を調査して換算し、それと落ちて来て村を形成し神社を建造するに何年位を要したか、これ等を合算すれば相当な年月となり、一千年以上を経ているものと推測される。
 宮太夫は神官で弓の名人であったと云われる。追手の来た時射たという矢平と云う地名、七人の捕り手を射殺したと云う七人塚という地名、追手が来た時見橋をしていたものが旗を振って知らせたという旗立(現在、畑立)という地名などがある。又五六人の追手が来た時家人や村人は豫め避難っせ己れ一人家の東側の高い処にあった樅の木の上に上がって様子を見ていた宮太夫は、機を見て矢を放ち射殺したと云われている。
 一度井川の大島へ逃れ又引き返して来たと伝えられており、火災にもあったと伝えられている処から、古い物は失くしたり焼失したものと思われる。古びた烏帽子と、神事用のたすき、手彫りの祭事の時に使ったと云うお椀が蔵されている。
 屋敷の裏山に天王様と称して小さな祠があり、先の三本になった槍と、反りのない小刀が御神体として納められている。正月には、小正月まで斎戒木曜してお祭りをしたと言われ、今でもそれに倣って行っている。井川の大島にも天王様の祠があり、宮太夫の井川へ落ち延びた時お祭りしたものの如く伝えられている。
 宮太夫は、神社への信仰篤く神社の鍵持ちとして、子孫が継承し現在に及んでいる。旧二月七日、六月十四日の年二回の天王様のご縁日には、村内砂家へ寄って御日待をしたもので、これは戦前まで続けられていた。今でも砂家は大間の芝切りと云い、屋号も宮太夫(みやだい)と呼んでいる。神事のヘンバイを踏んだ屋敷として、不浄は殊に厳しかったとの事である。
 こんなエピソードもある。その頃は、自給自足で衣料は藤の皮の繊維で織った太布を用いていた。或る日、宮太夫が士分らしく羽織袴で羽鳥を通った時、丁度田植えのころで女人等は山家の武士太布袴でサツパツタと云って笑ったので、宮太夫は羽鳥田圃、昨日、今日、明日、三日植え実らずにサツパツタと云い返したら、その田は秋になって実らなかったという。

<現存する大間・砂家> 

<約800mと大川でもっとも標高が高い大間>

<大間・白髭神社の本殿>
  引用:『藁科物語第4号〜藁科の史話と伝説〜』静岡市立藁科図書館.平成12年