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■古代〜中世/奥藁科のおこり

それははるか昔のこと。信州(今の長野県)高遠の「砂(いさご)宮太夫」という人が、はるばる深山幽谷を踏み分けて大間という地区にたどりつきました。この砂宮太夫、従五位という地位の神官で、もともと京都に住んでいましたが、ある時追われる身となって、いったんは高遠に落ちのびたものの、さらに安住の地を求めて駿河の国を訪れ、従者3人と藁科川をさかのぼり、奥藁科・開発の祖となりました。この「大間」の地名のゆかりは、当時藁科川の下流の羽鳥から、ここ大間の地まで一件の家もなかったというところから、“大きな間=大間”となったと言われています。

このようなお話が“奥藁科のおこり”として今に伝えられていますが、日向地区・東の夕暮山の中腹にある野田ノ段というところからは、今から約3,000年前の縄文時代の生活用具である土石器類が多数出土していることから、このようなはるか昔から奥藁科に人が住み始めていたと考えられます。


写真1 今も残る砂家(大間)
■中世〜近世/秋葉街道が育んだ文化

現在も奥藁科にお住まいの古老の方々とお話しすると、ちょっと変わったイントネーションであることに気がつきます。語尾を上げて話す独特のこの“なまり”は、お隣の川根本町周辺の言葉ととてもよく似ています。

その昔、戦に敗れ、争いに負けた幾多の隠遁者・落ち武者たちは、ひそかに奥藁科の地に身を隠したと言われています。人々は駿府に出ることなく、交流は山越えの「秋葉街道」が主で、川根地方との交流が多かったので、その名残が“なまり”に残っていると考えられています。この秋葉街道は、人の往来が多かった東海道に対する裏街道として、源頼朝にちなむ幾多の言い伝えや平家の落人伝説等をこの地にもたらし、中世〜近世の奥藁科の歴史を形作っていったと言えるでしょう。

現在、藁科川にそって静岡の市街地とを結ぶ藁科街道(国道362号・県道60号)は、かつて道とは名ばかりの踏みわけ道や河原にそった道で、川に橋はなく、流れに足を滑らせながら、苦労して渡り進んだことでしょう。この街道にそって、幾多のお地蔵さんの祠を見かけますが、人々の通行の安全を願ったり、命を落とした馬を供養するために建てられたもので、とても険しい道のりであったことを物語っています。

写真2 路傍の馬頭観音群(日向)
■江戸時代/複雑な領有関係

1603年江戸時代が始まりましたが、徳川家康のお膝元でもあった駿府は、幕府にとって最も重要な場所の一つとして扱われ、奥藁科を含む旧安倍地区は、そのほとんどが幕府が直接支配する幕府領でした。けれども、その中で栃沢・日向・諸子沢と、清沢地区の坂本を加えた4つの村の中には、紀州(現在の和歌山県と三重県南部一帯を治めていた藩)領が一部ありました。この紀州藩から遣わされていた、丹羽金十郎と渥美治部之助という2人の紀州藩士がそれぞれ土地を治めていたため、代官が支配していた大部分の幕府領に加え、一つの村を三者が治めているという複雑な領有関係にありました。

写真3 宇山の水田(坂ノ上)
■明治〜大正/大川村の誕生・藁科街道の整備

明治4年(1871年)の廃藩置県の後、駿河の国は7区45小区に新たに区分され、奥藁科のある安倍郡は第5大区に属し、役所は静岡市葵区の安西にありました。明治11年(1879年)「群区町村編成法」で、日向・坂ノ上・諸子沢・湯ノ島・栃沢・楢尾・崩野・八草・大間の九つの村が1つの行政区として、役場を日向に置き、区長が治めることになりました。そして、明治22年(1888年)の市町村制の施行によって、それまでの村の名前を大字にして、九か村が合併し、藁科川上流を“大川”と呼んでいたことが由来となって「大川村」が誕生しました。初代の村長には佐藤標三さんが就任し、24代続く歴代の村長さんの顔写真は、陽明寺・深耕庵の廊下に飾られています。

また、清沢地区の昼居渡まで改修されていた藁科街道は、奥藁科に向かって明治42年(1909年)ごろから整備されはじめ、大正5年(1916年)には湯ノ島まで全線開通しました。

写真4 道の開通記念碑(諸子沢)
■昭和〜現在/静岡市への合併・文化財への指定

広大な山間部に拡がっていた安倍郡は、明治41年(1908年)に豊田村安東の一部が静岡市へ合併されたのを皮切りに、次々と静岡市に編入され、昭和44年(1969年)1月1日、最後に残った六か村(大河内・梅ケ島・玉川・井川・清沢・大川)が合併して、安倍郡という呼び名はなくなりました。

また奥藁科に残る文化財も次第に見直され、日向の「七草祭り」が昭和54年に静岡県の無形文化財に、続いて坂ノ上の「薬師堂仏像群」が、平成15年に静岡市の有形文化財に指定されました。

写真5 仏像群を納める薬師堂(坂ノ上)