TOP > 歴史・地理 > 名馬「するすみ」伝説 ≪ 名馬「するすみ」伝説 ≫

 鎌倉時代を開いた源頼朝の愛馬となり、梶原源太景季に賜(たまわ)って、宇治川の先陣争い(1184年)で天下にその名を知られた名馬「するすみ」は、奥藁科の栃沢で生まれ育った野生の馬です。
 当時、栃沢の辺りには、たくさんの野生の馬が草をはんでいました。その馬の中に、まだ仔馬ですが、全身が墨で塗ったように真っ黒で、見るからにたくましい馬がいました。この馬に目をつけた栃沢の長者の米沢家(後に聖一国師が誕生した家)では、この雌馬を捕まえて、お婆さんが大切に育てたそうです。
 その頃鎌倉では、武士の間で名馬をそろえる風習があり、各地に良い馬がいないかどうか、探し求めていたと言います。米沢家の黒い馬の評判は、たちまち将軍であった源頼朝の耳にも入って、早速その名馬を手に入れるための使者として、赤沢入道・小島三郎・日向太郎の三人が遣わされることになりました。この三人の使者は、家来と共に駿河の国に入り、藁科川をさかのぼって栃沢へやってきました。名馬を手に入れたいという使者と、それを手放したくない米沢家との話し合いは、なかなか進まず、3人の使者は、家来とともに三つの村に分宿して交渉にあたりました。この使者の宿泊地が、それぞれ「赤沢」「小島」「日向」という地名として今に残っていると言われています。
 さて、難航した交渉もいよいよまとまり、米沢家の黒い馬は、将軍頼朝公に献上されることになり、生まれ育った栃沢を後にして、藁科川のほとりへ下りてきて、体をきれいに洗い清めました。ここが「馬洗い渕」と名付けられ、今ではアユやヤマメの釣り場となって残っています。
 馬の世話役は、この馬をいわたりながら、坂ノ上の宇山地区まで下りました。その時、ここにある大きな平石の上に立った黒馬は、ふるさとの栃沢の方に向かって、前足を上げて、一声高くいななきました。この石が「馬蹄石」として、今に伝えられ、名馬「するすみ」の足跡と共に、黒馬を我が子のように大事に育てた米沢官女の下駄の跡がくぼんでいます。
 府中(今の静岡市街)まで愛馬を送った米沢家の人は、馬と別れて帰ってくる途中に、馬具のカギを渡すのを忘れて、そのまま持ってきてしまったことに気がつきました。けれどもカギだけ持って帰っても、もう仕方がありません。そこで、通過する途中にあった道脇のほら穴へ、そのカギを捨て入れてしまったそうです。そこが「鍵穴」という地名になり、今も大きな栃の木があって、不動尊を祀ってあります。
 鎌倉に着いて、馬を頼朝公のご覧に入れると、頼朝公はたいそうお喜びになり、駿河から来た墨のように黒い馬、という意味から「駿(する)墨(すみ)」、或いは摺(す)った墨のように黒いから「摺(する)墨(すみ)」と名付けられたと言います。
 この「するすみ」にまつわる伝説は、民俗学者の柳田国男氏や石田英一郎氏の論文にも登場する大きな背景をもった物語であるとされています。
<するすみの育った米沢家> 


<坂ノ上宇山の馬洗い渕>
  引用:「大川のしおり」(杉本覚朗.香文工房.1982) 「安倍川流域の民族」(静岡県立静岡高等学校郷土研究部,田中屋印刷所.昭和55年)