TOP > 歴史・地理 > 伝承「宗太大工」 ≪ 伝承「天狗にさらわれた宗太大工」 ≫
 『宗野宗太郎』(宗太大工)という人は、江戸時代の豪農で坂ノ上の名主となって永く功績があったので、幕府から名字帯刀を許されました。初めて「宗野」の姓を許された『宗野惣太郎』という人の外孫にあたる人だそうです。
 宗太郎は、嘉永三(1850)年に坂ノ上に生まれ、明治三十四(1901)年までの人です。宗太郎は、大工の仕事が好きで、十三才の時に大工見習として働いていました。
 その日も、材木の木取りを手伝うために木挽職人と共に北沢の上流(今も山の神が祭った大木がある)というところで作業していましたが、突然姿を消して行方不明になってしまいました。さあ大変と村中大騒ぎとなり、当時の惣代は村中にふれを出し大勢の人を集めて、六根清浄大山権現様と合掌しながら、鐘と太鼓を打ちならして山から山へとさがしましたが見つかりませんでした。
 それから、七日目の朝になって大山より反対側の大平というところからひょっこり出てきました。宗太郎はやつれた様子もなく不思議なくらい元気でしたが、固く口をとざして何も言わなかったそうです。皆は不思議に思い、家に帰って色々問い詰めたところ、宗太郎はようやく口を開いて「実は、どこからともなく天狗がおりてきて、その体にのって空を飛び遠い町へ行き、見たこともない珍しい建物などを見てきた。五層の白壁の天守閣のお城が遠くに見えた。人々でにぎわう市にはみたこともない柄の反物、かんざしなどの小間物屋、町の辻には見せ物芸・・・・。」と目を輝かせて言いました。
 天狗からは、このことを人に話すと、股ザキにすると言われたので、詳しいことは口に出さず、死ぬまで口にしなかったということでした。
 宗太大工は、勉強も好きで寺子屋で学び、明治七(1874)年私立『漸々舎』というはじめての坂ノ上学校で、夜学に通いながら建設関係の勉強をするため多くの本を読みました。また、数多くのものを造りました。明治十四(1883)年、坂ノ上東西にあった神社が合併し堂山に移った時に祭神二柱の本殿を造りました。この本殿は昭和になって再建に当たり、境内社となって津島神社を祭りましたが、その後、老朽化し境内社も再び取り壊すことになりました。この時、棟下に残した『宗野宗太郎』名入りの墨ぎしが出たことは貴重な証拠となりました。

周囲を山々に囲まれた坂ノ上地区


現在、堂山に建つ坂ノ上神社 
引用:「『ふる里わら科八社〜第一集〜』(大川寿大学.昭和55年)