TOP > 歴史・地理 > 伝承「弥兵衛どん」 ≪ 伝承「弥兵衛どん」 ≫
 昔、「弥兵衛どん」という大地主がおりました。弥兵衛どんは、広い田畑を村人たちに作らせて若くてやさしい女房と気楽に暮らしていました。そこは、小高い山の根元で前にはきれいな水の大川が流れていました。夏ともなれば釣り好きな弥兵衛どんは、毎日、釣りばかりしておりました。
 今日もまたいつものように葉っぱで巻いたくわえたばこで夢中に釣りを楽しんでいました。あまり夢中になっていたものですから気がつくと、あたりはとっぷり暮れてしまいました。「ヤレヤレ、こんなに釣ったのは始めてだ。ドッコイショ。」と重い籠を引っ提げてやっと家に帰ってきました。「今日は気持ちが悪いほどたくさん釣れたぞ。そうれ。」と言って重い籠をドシンと土間におろしました。そこまでは良かったのですが、女房が籠の蓋を開けたとたんに「ヒヤア。ブルブル。ガタガタ。」と女房の顔色が変わりました。弥兵衛どんが「おい、おい。どうした。嬉しがって驚くなんてとんでもない。どれどれ…。」と言いながら土間に戻ってましたが、後は言葉にならず尻もちをついてしまうほどでした。なんと二人が驚いたのも無理はありません。籠の中には鮎どころか石ころばかりゴロゴロ入っていたのでした。「いったい全体、こりゃどうしたこんだ。」やっと気を取り戻した二人は一緒に、「こりゃあ、堂山のおこん狐の仕業に違いない。」「そうだ、そうだ。」とくやしがったのですが、これも後のまつりでした。
 「ようし。今度はこっちの番だ。」と、それから毎晩それとなくあたりの様子に気をつけていました。三日、四日、そして五日目になりました。その夜は月も出ておらずまっ暗い夜でした。やがて、『四つ時』にもなろうというのに表戸を「トントン。」とたたく音が聞こえました。それきたと、弥兵衛どんは薪を片手に、抜き足、さし足、しのび足で表戸の前に立ちました。表戸の節穴からのぞくと、一人の若者が提灯片手になにやら黒いものを玄関先に置いて「弥兵衛どん。今日は山鳥をとったで。ここんとこん置いとこん。」と言って立ち去ろうとしました。この時に、提灯めがけて投げた薪が「ドサーン。」と提灯に命中しました。ところが、提灯の火は四方に飛び散ってたちまち茅の屋根に燃え広がってしまいました。驚いた弥兵衛どんは大声で叫び助けを求めました。あれよ、あれよと騒ぐ人の声とは別に、裏の堂山からはかん高い声で「弥兵衛が焼ける。けー。やいずりぼうー、やいずりぼう。」と異様なさけび声が伝わってきました。
 恐怖の一夜が明けたその時、玄関脇の焼け跡から焼け焦げた山鳥が見つかりました。唖然と眺めていた弥兵衛どんは、突然大声で「わかった。」と叫んで、ポンと膝を叩いて話しだしました。「こないだ俺が釣った魚をおこん狐が生まれたばかりの子どもを育てるために仕方なく盗んだことを詫びながら坂の代わりに山鳥を持って来たんだ。焼け跡の片付けは後にして、おこん狐のねぐらをさがしてくれ。」と言って先に立って山を登りました。「六根清浄、大山権現。」と、唱えながら山道を行くと道のかたわらの茂みの下に洞穴を見つけました。茂みをかき分けてみるとずっと奥まで穴は続いていました。弥兵衛どんは穴の奥の方まで首を伸ばしてのぞき込みました。すると、薄暗い穴の中央にやけどを負ったおこん狐が横たわっているのを見つけました。しかし、おこん狐は動こうとしません。もう、息が絶えているようでした。薄暗い穴の中にも目が慣れ、おこん狐をよく見ると、おこん狐に子狐が潜り込んでいるのが目に入りました。これを見た村人はたまりかねて泣くばかりでした。地べたに頭をすりつけて泣いている弥兵衛どんと女房は、自分のしたことの過ちを悔い入るばかりに泣き伏して離れようともしなかったそうです。
 弥兵衛どんはおこん狐を丁重に葬って祠を建てたということです。また、子狐を我が子のように育てた後、元の堂山へかえしてやりました。心の優しい弥兵衛どんは村人にも信頼されて名主となりました。名字帯刀を許されはじめて『勝見』の姓を名乗ったのは江戸時代の中頃のことだったということです。何代目かの『勝見太郎左衛門』は、先の名主『宗野惣太郎』と、享保十四(1729)年己酉七月に村人の安全祈願のため施餓鬼供養で自然石に『有縁無縁三界万霊』と刻んだ石碑を建て、今の世に残してくれました。 

弥兵衛どんが釣り糸を垂れた大川(藁科川


おこん狐のねぐらがあった堂山(奥の山) 


勝見太郎左衛門が建てた施餓鬼供養石碑
引用:「藁科物語第4号〜藁科の史話と伝説〜」(静岡市立中央図書館.2000)