聖一国師(圓爾弁円えんにべんねん)は、建仁2年(1202年)の10月15日に、奥藁科・栃沢の米沢家に生まれました。5才の時に、久能寺(今の久能山)の堯弁きょうべん法師のもとに弟子入りをした後、さらに奈良や京都で学び、嘉禎かてい元年(1235年)4月には、宋の国(現在の中国)に渡って、7年間修行をしました。帰国後は、関白藤原家に招かれて京都に臨済宗のお寺・東福寺を開山。宋の国からたくさんの文化を持ち帰り、偉業を遺して弘安3年(1280年)の10月17日に、79才の高齢で亡くなり、花園天皇から、日本の僧侶として初めての「国師」の号を贈られました。
宋からお茶の種子を持ち帰り、これを足久保に植えたのが静岡茶のはじまりと言われています。その他にも、織物や陶器、医薬の製法及び食料、そば等の栽培も奨励し、まさに郷土の生んだ大偉人と言えます。
西暦 | 年代 | 年齢 | 記録 | 他の主な出来事 |
1202年 | 建仁二年 | 1 | 10月15日、駿州安部郡藁科(今の静岡市葵区栃沢)に生まれる。 | |
1206年 | 建永元年 | 5 | 久能山に登り、久能寺の |
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1208年 | 承元二年 | 7 | 『 |
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1210年 | 〃四年 | 9 | 『 |
順徳天皇即位 鴨長明『方丈記』 |
1213年 | 健保元年 | 12 | 『法華の妙玄(法華経玄義)』を学ぶ。 | 和田合戦 |
1214年 | 〃二年 | 13 | 父、 |
建礼門院死去 源実朝『金槐和歌集』 栄西「喫茶養生記」完本 |
1216年 | 〃三年 | 15 | 久能山の議席にて解釈す。 | 鴨長明死去 |
1217年 | 〃四年 | 16 | 『 |
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1219年 | 承久元年 | 18 | 春、 10月20日、奈良・ |
源実朝暗殺 |
1220年 | 〃二年 | 19 | 洛陽(京都)に入り、孔孟の教えを学ぶ。 | 承久の乱起こる(1221年) 六波羅探題設置(1221年) |
1223年 | 貞応二年 | 22 | 園城寺に帰る。 |
道元入宋 |
1224年 | 元仁元年 | 23 | 久能寺・見西 |
北条泰時、3代執権即位 親鸞『教行信証』著す 運慶死去 北条政子死去(1225年) |
1226年 | 嘉禄二年 | 25 | 鎌倉・ |
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1228年 | 安貞二年 | 27 | 12月18日、阿忍流の秘印を受く。 | |
1230年 | 寛喜二年 | 29 | 秋、鎌倉・寿福寺にて一切経(大蔵経)を披閲し終わる。 冬、上野・長楽寺に帰り、栄朝に孝養奉仕す。 |
寛喜の飢饉 |
1231年 | 寛喜三年 | 30 | 5月17日、鎌倉・八幡宮にて三位僧徒を論破す。 | 貞永式目制定(1232年) 明恵死去(1232年) |
1233年 | 天福元年 | 32 | 栄朝より渡宋の 途中郷里に帰り、母を訪う。博多・円覚寺に憩う。 天台宗・大宰府 |
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1234年 | 文歴元年 | 33 | 高麗国王、法語を求む。 | |
1235年 | 嘉禎元年 | 34 | 4月1日、神子栄尊と共に肥前(現佐賀・長崎県)平戸を出航し、十昼夜の後、明州に着く。 景福律院、天童山、阿育王山を経て杭州の浄慈寺・霊隠寺にて修学。 夏、 |
霧島山噴火 藤原定家『私撰和歌集』(小倉百人一首)編纂 |
1237年 | 嘉禎三年 | 36 | 10月、無準、法語一篇を与え、常に敬して「 |
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1238年 | 暦仁元年 | 37 | 5月、無準、自像に賛して |
一遍生誕 |
1240年 | 仁治元年 | 39 | 無準より記別を受く。 | |
1241年 | 仁治二年 | 40 | 正月23日、無準『行状記』を圓爾に与う。 3月1日夜、無準自筆の「宗派の図」を圓爾に授く。 4月20日、圓爾、径山を辞す。無準、 5月1日、乗船帰朝の途に就く。 6月30日、難船の末、高麗国に避難す。 7月、博多に帰着す。 8月、船主謝国明博多 12月18日、圓爾、大宰府天満天神に法衣を授く。『渡宋天神』の起源。 栄尊の請いに応じ肥前萬寿寺を開堂す。 |
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1242年 | 仁治三年 | 41 | 夏、火災後の径山へ材木千本を送る。 9月、博多承天寺竣工。謝国明、圓爾を請いて第一世とす。 |
後嵯峨天皇即位 北条経時、4代執権即位 |
1243年 | 寛元元年 | 42 | 正月、大宰府有智山の徒、博多承天寺を毀す。朝廷之を許さず承天・崇福二寺を官寺とす。 2月、圓爾上洛して月輪殿にて禅法を説く。道家喜びて日本総講師位を授けしも、辞して受けず。因って「聖一和尚」の四字を書して給う。 日蓮、圓爾を表敬す。 |
鎌倉大仏完成 |
1244年 | 寛元二年 | 43 | 正月5日、圓爾、禅要を道家に説く。東福寺に台密禅を併置す。 秋、長楽寺栄朝に帰朝報告。道家この為、 晩秋、京に帰り、月輪殿に寓居す。 |
道元が永平寺建立 |
1245年 | 寛元三年 | 44 | 参内して『 |
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1246年 | 寛元四年 | 45 | 3月10日、『 普門院を圓爾の居に充てる。 関白 |
後深草天皇即位 北条時頼、5代執権即位 |
1247年 | 宝治元年 | 46 | 9月26日、上野国長楽寺栄朝 |
宝治合戦 |
1248年 | 宝治二年 | 47 | 博多承天寺焼く。圓爾、博多に赴き、謝国明に再建を要請す。 | |
1249年 | 建長元年 | 48 | 正月21日、時頼、鎌倉 3月18日、恩師宋国径山の無準師範示寂。 6月10日、 7月、承天寺の再建成る。同寺を訪れ慶す。 11月21日、鎌倉建長寺創建の為、門僧十人を派して |
引付衆設置 |
1250年 | 建長二年 | 49 | 母卒す。道勝禅尼。 | |
1251年 | 建長三年 | 50 | 閏9月25日、関白兼経、禅要を問う。 | |
1252年 | 建長四年 | 51 | 眼疾あり、参内を辞す。 | |
1253年 | 建長五年 | 52 | 2月、自像に賛す。 右眼を失明す。 |
日蓮、法華宗開く 道元死去 |
1254年 | 建長六年 | 53 | 冬、鎌倉に赴き、寿福院に入居す。時頼に菩薩戒を授く。 | |
1255年 | 建長七年 | 54 | 夏、鎌倉より帰洛す。 6月2日、 |
北条長時、6代執権即位(1256年) |
1257年 | 正嘉元年 | 56 | 3月、後嵯峨上皇、受戒せらる。上皇お手ずから黄金扇を下賜せらる。前後七日間宮中に留まりて放談す。 勅により東大寺幹事職となる。 時頼、鎌倉・寿福院に招請して叢林の礼を行ぜしむ。 時頼の請いにより『大明録』を講ず。 |
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1258年 | 正嘉二年 | 57 | 5月14日、将軍宗尊親王の命により京都建仁寺に住し、復興整備を図る。 六條御堂を萬寿禅寺と改称す。 |
日蓮「立正安国論」著す |
1261年 | 文応元年 | 60 | 駿河清見寺の落慶に参ず。 |
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1262年 | 文応二年 | 61 | 10月16日、時頼、兀庵に参じ契語見性す。これを祝賀す。 | 親鸞死去 |
1264年 | 文永元年 | 63 | 鎌倉建長寺にて兀庵と共に故時頼のために |
北条政村、7代執権即位 |
1265年 | 文永二年 | 64 | ||
1267年 | 文永四年 | 66 | 夏、 秋、 勅により尊勝寺の幹事となる。 空明に法語す。 |
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1268年 | 文永五年 | 67 | 8月27日、「禅教的血脈」を自書して、 9月14日、「菩薩戒血脈」を自書して、爾真に与う。 菅原 |
元国より蒙古国書届く 北条時宗、8代執権即位 |
1269年 | 文永六年 | 68 | 勅により奈良東大寺を幹す。 | |
1271年 | 文永八年 | 70 | 3月5日、叡山・ 3月18日、無準師範の二三回忌を修す。 9月15日、元国の国師、国書を贈れりと伝う。 東福寺の法堂、祖堂、祠堂等を起工す。 宋僧、曇西/ |
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1272年 | 文永九年 | 71 | 2月17日、後嵯峨法皇のご臨終の説法を為す。 10月6日、「大日経」を開講す。 |
異国警固番役設置 |
1273年 | 文永十年 | 72 | 正月元日、東福寺法堂を落慶す。 冬、亀山帝、圓爾を召して大乗戒を受ける。 |
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1274年 | 文永十一年 | 73 | 亀山帝、再び受戒。 | 文永の役 後宇多天皇即位 |
1275年 | 健治元年 | 74 | 正月7日、一條実経受戒す。 正月25日、真珠庵主に法語す。 亀山法皇再び受戒、「三教 『十宋要道記』 を撰す。 |
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1276年 | 健治二年 | 75 | 閏3月、亀山法皇「修行必要」を問う。 後深草上皇、圓爾より受戒す。 |
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1278年 | 弘安元年 | 77 | 曇西、宋国に帰り、圓爾に書を贈る。 | |
1279年 | 弘安二年 | 78 | 2月、 秋、蔵山准空・東山湛照(東福寺第2世住持)等に自賛像を与える。 |
宋僧無学祖元、来日 |
1280年 | 弘安三年 | 79 | 2月上旬、圓爾病む。 2月14日、勅して圓爾に参内せしむ。 4月中、法性寺五大堂を新しくす。 5月2日、常楽庵を 5月16日、一條実経「総処分」を複写し、圓爾をして奥書せしむ。 5月21日、普門院並びに自像賛を正堂俊顕に付与す。 5月中、自像賛を奇山・弁雅に与う。 6月1日、東福、承天、崇福、水上萬寿各寺規範八カ条を掟制し、特に東福住持は他派を交えず、圓爾の一派制を厳守せしむ。 6月2日、方丈より常楽庵に移る。 6月3日、普門院及び常楽庵規式を定む。 6月6日、『三教展籍目録』を作り普門院書庫に補う。 9月、病軽快す。 9月15日、径山の規則に模し、東福寺祈祷日鑑を製し、各条項に捺印証明して関白実経に上る。 10月1日、常楽庵にて自らの「出生始末」を述べる。 10月13日、密宗阿忍流を白雲恵暁(東福寺第4世住持)に付授す。 10月14日、法堂に帰らんことを命ず、諸徒泣いて聞かず。 10月15日、宋朝、末期上堂せんとす。諸徒従わず。末期の書を 10月16日、病身を駕籠で法堂に移すよう侍者に強要す。諸徒 10月17日、卯の刻、鶏鳴を聞き、 |
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1311年 | 応長元年 | 花園天皇より聖一国師の |
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1779年 | 安永八年 | 500回忌に栃沢より米沢家ら三十四輩焼香す。 | 桜島大噴火 | |
1780年 | 安永九年 | 後桃園天皇より大宝鏡広照国師の諡号を受ける。 | 天明の大飢饉(1782-88年) | |
1930年 | 昭和五年 | 昭和天皇より神光国師の諡号を受ける。 |