安倍川水系の一支流である藁科川は、全長29.2メートルの清流である。アユ釣りのメッカとしてして知られ、その源流は、七ツ峰や天狗石山、天狗岳などの峰々から始まる。北から南に向かって南下する本流には、東西方面から崩野川、諸子沢川、杉尾川、黒俣川、氷川、坂本川(清沢川)、水見色川、小瀬戸川、飯間谷川、久住谷川、大門川など、数多くの支流が流入し、複雑な谷筋を形成している。各集落は、この沢筋に沿った谷間に入り組む形で開発され、長い歴史を刻んできた。
流域は、江戸時代、「藁科の谷」と呼ばれ、一つのまとまった領域を形成していた。上流域は、三方を1000メートル級の山塊に囲まれているが、閉塞された行き止まり空間ではなかった。尾根筋には高位緩傾斜が発達し、そこが古くからの人や物資の行き来する交易路ルート取りとして利用されてきた。
遡って中世の時代、「藁科越え」は大井川上流域に通じる重要な戦略的物資補給ルートとして位置づけられていた。藁科の谷で、東西と南北方向の道筋がクロスする中継路としての伝統があった。戦国時代、朝比奈(藤枝市)から小瀬戸に抜け、そこから本川根(川根本町)に米を運び込むルートがあり、八草には金山へ送る物資を見張る番所が設けられていた。また、「藁科口水見色」という表記もあり、まさに、藁科の谷への出入りは、沢筋の谷間と谷間をつなぐ峠道を伝播ルートとして、外部から文化が持ち込まれる歴史があった。
明治22年(1889)の市町村制施行により、藁科の谷の村むらは、新たに再編され、服織村、中藁科村、南藁科村、清沢村、大川村と命名された。これらの新しい村名は、「服織荘」、「藁科郷」などの歴史的由来や、「清沢」、「大川」など川の名前にちなんで命名されてきた。
この「服織荘」は平安時代後期の荘園、「藁科荘」は室町時代の荘園の存在を意味しており、この谷筋の開発の古さを示している。荘園時代の生業が何であったかは明確ではないが、山間地域の自然を利用した特産物を産出していたことが考えられる。その生業風土は、羽鳥の建穂寺に伝わる養蚕の守護神とされる馬鳴大明神への信仰や、栃沢の名馬摺墨の生誕地伝承、大間の福養の滝で沐浴させると駿馬になるという伝承を育んできた歴史に反映されてきたと言えよう。また日向福田寺観音堂の七草祭では、稲作の豊作を祈願する田遊びが行われており、中世の生業として水田稲作が重要であったことを今に伝えている。さらに小瀬戸遺跡からは、ヤト(谷)の湿地に開発された鎌倉時代から室町時代にかけての水田跡が発掘されており、小さな沢筋に入り組んだ水田開発の古さを示している。
カイト(常畑)の畑作では、お茶栽培が普及する以前、麦の栽培が盛んに行われていた。また、「切杭伝説」を伝える原坂家では、畑に麻を栽培することを忌んできたと言い、このことは、逆に、畑作物として麻の栽培もかつて重要であったことを示唆している。このように藁科の谷筋は、温暖な風土と豊富な水に恵まれた土地柄の中で、農業の他に、製糸や紙漉きなど、手工業的生業も発達させていたことがわかり、閉塞された谷の歴史の古さが想像されるのである。

引用:「藁科川流域の民族」静岡市文化財課.平成21年