創建
薬師堂は、現在無住のお寺で、地元坂ノ上の町内会が管理し、毎月八日の縁日には、更に上流の日向地区にある陽明寺の住職により法要が行われています。この創建についての文献史料は全く残されておらず、確実なことは分かっていません。地元の古老の勝見惣太郎氏(故人)によると、奈良時代に付近の豪族坂上氏によって行基菩薩(668-749年)を開山として建立、江戸時代には向陽寺の境内に再建されたと言います。寺はその後荒廃して無住となり陽明寺の末寺となりますが、薬師堂は安政元年(1854年)に失火により焼失し、さらに寺は明治の廃仏毀釈によって廃寺となりましたが、現在のお堂は昭和四年(1929年)に再建されました。
江戸時代の史料
薬師堂のあったと伝えられる向陽寺については、江戸時代の史料にその記述を見ることができます。
文政3年(1820年)桑原獣斎編『駿河記』には、
○曇華山向陽寺 洞家 日向陽明寺末在西
本尊地蔵 木仏薬師大像長一丈許
(他に)三拾三体行基大士作
とあり、さらに天保六年(1835年)新庄道雄編『修訂 駿河国新風土記』では
○向陽寺
禅 曹洞宗 日向陽明寺末
本尊 薬師如来
此本尊 木仏にて長一丈余の大像なり
寺説に行基の作と云伝ふ
とあり、開山については触れられていませんが、安置仏の作者をいずれも行基としています。
また文久元年(1861年)駿府浅間新宮神主中村高平の著『駿河志料』によれば、
【向陽寺】同寺(陽明寺)末、曇華山と号す、西にあり、本尊地蔵、薬師高一丈木像
三十三体の仏像を安置す
とあります。現在薬師堂に安置される中尊の薬師如来と他の古仏群は、その法量(仏像の大きさ)や制作年代なとから、一揃いのものであったとは考えにくいが、『駿河記』の編纂された文政年間には、すでに同じ場所に安置されていたものと思われます。
目の神様
昭和四年に再建されたという現在の堂の建物には、中央に薬師如来、左右に古仏群が雑然と安置されています。中尊の薬師如来は現在も「目の神様」と呼ばれ、年齢の数だけ「め」の字を書いた紙を奉納すると眼病に霊験があると信仰されています。これと同様に「目」「め」の字を奉納する祈願方法としては福島県地方の例が紹介されています。